Shammer's Philosophy

My private adversaria

限界突破できないと幸せになれない?

生きにくい世の中だと思う。資本主義の競争ゆえなのだろうか。人間のための社会でなく社会のための人間、というか、多くの組織がその組織の一部の人間の目標のために多くの人間の力を必要とし、多くの人間をその目標達成のための駒にする。もちろん、この状態が健全な範囲で行われているような場合もある。一方で、それは明らかに搾取だよな、というレベルの事もある。先日、セブンイレブンの残業代未払いのニュースを見て思ったが、以前はこの健全じゃない状態でも我慢するしかなかった空気が変わってきている。

勝ち組企業は、そうなるための仕組みを既に持っている。そして、その仕組みを維持するため、仕組み通りに運用するために人を使っている。仕組みが想定通りに機能しないと、この激しい生き残りに負ける可能性があり、生き残りに負けると、組織の規模によっては何千・何万という規模で影響が出る。そうなると大変だから、暗黙のうちに一人一人の都合が尊重されなくても仕方ないんだという空気が出来上がっていく。でも、尊重されなくても何らかの報われた感があれば、それにも耐えることができていた時代があった。将来への希望や、実際に変わりゆく社会というような具体的な形のないものも含めて。でも、平成の世になってからはインフラも充実してきていて、また、生まれたときからその状態が当たり前の世代も増えて、戦後の焼け野原に何もないような光景を現実として知らない人が増えてきた。そういう人は、駒にされることに絶望や苛立ちはあっても、駒になることで希望になるような要素は皆無と言える。でも、指導する側になっている人はその辺の感じ方の違いがわからずに今の苦労は大きなことを成し遂げる因になる、踏んばれ!!というようなことを言う。そういうことは絶対にない、とは言わないが、そうなる例の方が限りなく少なく見えるのが実情ではないだろうか。ただただ出来上がった仕組みを維持しているだけの現実なのに、それをごまかすような話をしても信じない人も多いだろう。でも、生きていくためにはそれでもそれをやらないといけない。結果的に、希望はないが生きるためだけに仕事する、みたいになってしまうのではないか。そんな状態が当たり前のように何年も続いてきたが、先日のセブンイレブンの例はそういう流れの変化を感じさせる。

希望がなくなってしまった要因の一つは、正当な対価を受け取ることができていなかったこともあると思う。実際には労働しているのに、シフトのルールとかで 1 分でも過ぎれば 30 分とかタダ働きするのが当たり前とされていたような空気。しかし、この運用は実は「労働基準法24条に違反(賃金の全額払いへの違反)」になるらしい。自分がバイトをしていたところでもこういうのが当たり前とされていて、違うんじゃないのとか言おうものなら世の中ナメンナヨみたいな話をされていた。しかし、法律ではナメンナヨと言っていた人達の方が間違いだった。インターネット普及前は、こういう情報を確認したいと思っても確認できなかったからなあ。どうせ誰も確認しないだろう、とタカをくくったどこかの誰かが、もっともらしいことを言って賃金は15分とか30分単位の支払い、というのを決めたのが広まっただけかもしれない(個人の勝手な推測です)。

こういう改善されてよくなっていきそうに見えるところもあれば、そうでないところもある。多くの人が駒にされるような社会でも、優秀な駒になろう、あるいは、駒を使う側になろうと努力してそうなった人たち。そういう人の中には、一部の才覚ある人というか天職のような人もいるかもしれないが、そうではないが努力でそういうポジションを勝ち取った、という人もいると思う。それ自体は問題ない。でも、そのポジションを勝ち取った人は、ある意味で特殊な力を持っていると思う。それは、人一倍努力できること。人一倍忍耐力が強い、誘惑に負けないということ。そういう人の努力の結果を否定するわけではないが、そういう努力をできない人もいる。そして、そういう努力できない人は、苦しくても希望がなくても生きるためにはやりたくない仕事でもやれ、というような空気を感じる。努力した人間が報われるのは問題ないが、努力できない人、したくない人は権利を主張することは許さない、となるとそれは行き過ぎだと思う。努力できない人、したくない人は贅沢できない、であれば文句は言えないだろうと思う。権利を認めないようなレベルのことを言う人がどれくらいいるかは正直わからない。

人間は本来は、苦しい人を助けたいとか、そういう感情を持っていると思う。しかし、社会で自分が生き残るために努力をすることで、努力できない人間の苦しみを感じとれなくなるというか、助け合いの気持ちを忘れて、「生き残りたければ努力しろ」という考えに染まってしまう人がいる。台風19号のときに、避難所にホームレスは入ってはいけない、というような話が出たが、その理由は税金を払ってないからというのが主なもの。もちろん、払いたくて払う人間はほとんどいない。それでも払っているから、払わないで恩恵だけ受けることができる人がいるというのを許すことができない、そういう人は、そういう主張をしてしまうだろう。筋が通っているように見えるかもしれないが、それは人の命の重みを無視している。努力している人間、大変でも頑張って税金を払っている人は助けましょう、でも、努力しないで払うべきものも払わない人間はどうとでもなれ、わかりやすく極端な言い方をすればそういう主張だ。国や政府、税金って何のためにあるのだろうか。アリとキリギリス、アリが正義でアリのような一生を送るようにと教えられてきたが、これだけだとキリギリスは見殺しにしろ、というように無意識のうちに学習してしまっているのだろうか。

前半に書いた残業代の話は、努力していても報われないで理不尽なことでも当たり前とされてきていた時代が変わりつつあるのかも、という話。言ってみれば、より努力が報われるように、努力に対して正当な評価がされるように、というような流れの話。でも、それで終わってしまえば、後半のような努力できない人は犠牲になっても文句言うな、というようなところは変わらない。人間には体力の限界がある。精神力の限界もある。今は努力できていても、数年後はできないかもしれない。努力できなくなったときに自分が逆の立場になると考えても、それが正しいと言えるのだろうか。そもそも、すでに出来上がった仕組みを維持することでその恩恵を受けて豊かに生活できる、というこの仕組みが健全なものなのか。誰かのために、そういうところから出発したはずの発想が、いつの間にか仕組みを維持することが目的になって、誰かのためでなく、誰かの手によって、というか、、、目的と手段が逆転していないだろうか。人が社会を形成するのは、誰かから労働力を搾取して自らが豊かになるという目的ではなかったはず。力を合わせて生きる、というのが原点ではないのだろうか。その時代、力のないものはどうだったのだろう。役に立たないとゴミ同然に扱っていたのだろうか。そんなことはないと思う。むしろ、力のない人のために力を合わせていたのではないかと。

もちろん、お金を受け取る以上は果たすべき責務がある。しかし、自分を犠牲にして限界突破しないとより豊かになれない、というサイクルを続けるのに限界がきている。まあ、この限界がきているために、少し疲れて被害妄想になっているところもあるかもしれない。あまり意識しないで書いたが「努力」という言葉を滅茶苦茶使っている。少し休む必要があるのかもなあ。