Shammer's Philosophy

My private adversaria

新型コロナのニュースを見ていたらいつの間にか人権について考えていた

新型コロナのドタバタの渦中に、様々な政治的な動きも出ている。9月入学への変更、ここ数日話題の検察官定年問題とか、気をつけていないと埋もれてしまうようなものもある(ニュースにならないと気付かなかった)。その一方で、給食や外食がなくなっている、あるいはみんな行かなくなっている等で廃棄になる食材も多い。政府がこういう食材を買い上げて生活苦しいという人にこうした食材を回すとか、こういうことできないものだろうか。

そして、自粛警察なるものも気になっている。感染拡大防止に貢献しない人を糾弾する、というのが彼等の正義のようだが、本当に正義が非常に疑わしい。実際食事を買ってきて済ませないといけない人もいるだろう。こういう人が持ち帰りしても、待ち時間で密にならないように工夫すれば感染拡大に貢献することもないだろうが、こういうところも自粛警察は見境なくターゲットにしているようだ。でも、彼等の感覚では「人が出掛ける」のはどんな場合でも感染拡大を誘発しかねない避けるべき行為に見えているのではないかと思う。こんな莫迦な話はないと個人的に思う。そんなこと言ったら最低限の買い出しすらいけなくなってしまう。

感じ方は人それぞれと言っても、生活環境が類似していれば、暗黙のルールのようなものを共通で持つことになる。日本では忖度が美徳とされるようなところがあり、自粛という表現を忖度すると、今の状況では「禁止」と捉える人が一定数いる。「禁止」と理解している人に取っては、外出している人や外出の要因となる店舗の営業は許せないのだと思う。しかし、「禁止」と理解していない人は、必要最低限の範囲で行動する。ここにも落とし穴があって、必要最低限の感じ方も人それぞれ違う。あの人の必要最低限は許されるのに、なぜ自分の必要最低限は許されないのか、あちこちでこんな議論があると思う。そして、そういういくつもの声が政治に届いて、声がありすぎて線引きできなくしてしまっているように思う。簡単な言葉で片付ければ優柔不断ということになるが、実際線引きを決定したときにその境界付近の人はいろいろ文句を言うだろう。この文句が出ないようにすることは不可能だ。文句が出てもそう決めたから、と突き進むしかないのが政治だ。このときに、できるだけ多くの人に納得してもらえる案を選択する必要があるのは言うまでもないが、全ての人に納得してもらえる案なんて10人程度を相手にするのであればあるかもしれないが一億以上の人を対象にそんな案を出すなんて不可能に近い。結局、どんな選択をしようと一定数の人はその選択に不満を感じる結果になる。

しかし、時にこの不満というのが毎回同じような人に集中することがある。一部の同じ人達が常に貧乏クジを引かされるというか、そうなったらその人達はたまったものではない。一般的には社会的弱者という類の言葉で表現されるが、突き詰めて見れば経済的に困窮している人になることが多い。賭け事では絶対に胴元が勝つ、という理屈と同じだ。この敗因は勝負の実力じゃない。元手がなくなれば土俵にすら上がることができないという仕組みのためだ。どんなに実力があっても元手がなければ勝負すらできない。言い換えると、連続で何回負けたときに元手がなくなるか、という話で、一般的には挑戦者よりも胴元の方が体力がある。10連敗して元手がなくなってしまう人と100連敗しても平気な人であれば、長期的に見れば100連敗しても平気な方が生き残る。不測の事態に陥ったとき、体力のある方が強い。体力がなくなりそうな状態の人とそうでない人とでは危機の感じ方も違う。一刻でも早く自粛生活が終わってくれないと困る、と感じている人の中には、それを邪魔する人の存在を許せない人がいるだろう。ゆとりのある人が危機を感じている人を救ってやることができるかと言えば、それはできないだろう(一人二人ならどうにかできることもあるかもしれないが)。では、危機感のために自粛警察になってしまっている人をそのままにしておけというのか、というかと言えばそうでもない。仮に自分がそういう状態の人を目の前にしたとすれば、冷静な話をすること自体も非常に難しく、相手のその行為を止めることはできないだろうと思う。というよりも、中途半端に関わってイタイ思いをしてしまう危険性を感じて避けようとしてしまうと思う。ただ、心の中では、自粛警察の行為がプラスに働く可能性はほとんどなく、直面している危機に対しても何も効果がなく、自己満足にすらならず、余計に自分自身の中の不安な気持ちを増長させる以外の効果しかないことに気付いてほしいと思う。

自分から見た自粛警察の行為の効果はこんな程度だが、それでもなぜこれをやってしまう人がいるのか。これは「正義」に見えてしまうからだと思っている。みんなで一致協力して問題の解決に取り組まないといけない、というときに、協力しない人や和を乱す人がいると解決が遅くなる。また、本来100ある仕事を100人で分担すれば一人当たりは1の仕事量だが、やらない人がいると一人当たりの仕事量は1以上になる。1以上の仕事をした人は、ズルいとか不公平だとか、そういう感情を持つだろう。このズルさとか不公平さを埋めるために、賞罰という仕組みを導入してそれを解消しようとしている。少なくとも、多くの企業組織はそういう「前提」で動いている。が、この「自粛要請」なるものには企業組織にある賞罰の仕組み、つまり、このズルさとか不公平さを裁く仕組みがない。個人的には、仕組みも権限もない以上は誰も裁くことができないと思っているが、この「賞罰」なるものが社会では前提というか当然の空気がある。そういう感覚の人にしてみれば、ズルさや不公平さを放置できないのではないかと思う。放置できないがために、実際に非難するような行動を取ってしまうと思われるし、同時に、企業組織では「賞罰」は当然だし国家でも法律というものがあり違反者には「罰則」があるのが当然であるため、違反しているのに裁かれないのが不条理と思って、それがああいった行動につながっているのではないかと思う。

だが、先に述べたような「あの人の行動は違反じゃないのに自分の行動は違反とされる、それが納得いかない」という主張もある。こういう主張に対しては、ルールを決めた人以外にその是非は判断できないだろう。しかし、ルールを決めた人と不条理に感じている人の感覚が同じかと言えばそうでもないため、感覚の違う人はルール自体に不満を持つことが予想される。では、その人達が不満にならないようなルールにすればよいかと言えばそうでもなく、新ルールになったところで別の誰かがそのルールに不満を持つ結果になるのも明らかだ。結局、一人一人がある程度の判断基準を持っていて、みんな自分の基準が正しいと思っている。ここから考えると、自粛警察なるものは、全体のルールに従っていると見せ掛けながら実際には自分のルールで誰かを非難しているだけという話になるが、そういう方向に話を進めてしまうと何も解決しない。

正義の使徒のような自らの行動に酔っているタイプの自粛警察は他の人から叩かれてしまえと思うが、危機感故に自粛警察になってしまっている人には援助が必要だと思う(自分にその力があるわけではないが)。その危機感をなくすには、しっかりした補償が必要なのだが、この補償のことになると邪魔をするのが上述の社会の成り立ちのような話だ。一律支援に反対の人にはこの考えが多いのではないかと予想するが、こういう状態になっても耐えられるだけの力がある人は、自らをそういう状態に置くために人一倍の努力をしている人が一定数以上いるのだと思う。アリとキリギリスの話ではないが、某大臣や官僚の中に、何もないときから自らの楽しみを抑制して、危急の時でも不安にならないような状態にする努力をしている人からすれば、普段は自分へのご褒美というような形でそこそこの楽しみを享受しながら生活をしていて、こうなったときに政府の援助を宛にするというタイプは助けたくない、と考えている人が一定数いるのではないかと感じている。一律支援になる前に、支給されるべき人はこういう人だと様々な条件を考えていたが、その中に収入がこれだけ減った人、というものがあった。裏を返すと、その基準くらい減ってしまったらさすがにどうしようもないだろう、という「思いやり」がある一方で、「そこまで減ってないのに支援が必要ってそれは日頃からの備えが足りないだけでしょう。国の財布はそんな人間を助けるためには使いたくない。」という「厳しさ」がどこかにあったと思っている。もちろん、そういう人もいるかもしれない。だが、その「厳しさ」は社会主義的な考えだ。今回のような危機的状況、あるいは老後のこととかを考えて、貯蓄しておかなければならない、貯蓄のためには楽しみを我慢しなければならない、それは価値観の押し付けだ。でも、あなたのしていることは価値観の押し付けです、と言っても、それは間違いなく否定されると思っている。そのとき言われるのは「世の中そういうものだ」とか「世の中を甘く見るな」とか、そういう類のことだ。世の中を変えていかなければならないと主張する人がいたとしても、この点を変えるという発想は出てこないだろう。しかし、この「厳しさ」ゆえに生きにくさを感じている人もいると思う。自分自身と戦うことで、この「厳しさ」の中でも勝利を掴みとることができる人はいいが、そもそも自分自身と戦えない人、あるいは、戦っても敗れて再起できなくなってしまった人、こういう人に対して冷たいと言わざるを得ない。社会の仕組みとかルールを考える立場の人が、この競争の中で勝ち抜いてきた人であるために、その競争自体に問題があるとは思えないのだと思う。この競争を否定することは、その人の努力のようなもの、あるいは人生全てを否定することに等しい。

この観点で考えると、今の社会は競争に勝つことができた人がその競争の仕組みを維持し続ける社会になっている。理由はどうあれ、競争に勝てないために経済的困窮から生命の危機を感じる人の一部が、防衛的に自粛警察のような行動をとってしまう。表面的にはそれだけだが、どうしてそういう人が出てきてしまったかというところまで考えると、「生き残るためには勝つしかない、勝つためには何かを犠牲にしなければならない」ということを、受験戦争や新卒一括採用という社会の仕組みから学んでしまうからだと思っている。受験戦争に突入するまでは、子供は勉強についていけない友達を助けようとする。しかし、一度受験戦争に突入すれば、他の誰かがわからない何かを自分がわかっていることはアドバンテージになるために、それを他の誰かに共有しようとしなくなる。こういう雰囲気の中で、自分のことは自分でどうにかしなければならない空気が生まれて、できないのは自己責任とされる。こういう中で自己錬磨を続けて最後まで勝ち続けた人が、それぞれの組織の中でトップに立ったとして、その人達がどういう組織風土を作るのか。営利企業であれば、数字重視の競争組織でもまだよいかもしれない(少なくとも今の時点では)。しかし、数字を追求してもブラック企業になってしまうようなことは許されない。実際は数字のために社員に犠牲を強いる企業もたくさんありそうだが。

では、国はどうか。当初の経済支援は、住民税非課税くらいまで収入が落ち込んだ人が対象とされていたが、落ち込み幅がそこまででない人は自己責任で乗り切るべきとでも思っていたのだろうか。現実的には国には国の財布の事情もあるから助けたくても限度もあるのかもしれないが、財布の事情故に支援対象を制限しようとしていたのか、気持ち的な事情から財布にかこつけて支援対象を制限しようとしていたのかはわからない。しかし、個々人の得手不得手、長所短所がどのようなものであるか、つまり、この人は私にとって役に立つから大切、この人は私には役に立つ能力を持ってないからどうでもいい、という考えでなく、一人一人の基本的人権を尊重する立場であってほしい。基本的人権は、何かの交換条件で得られるようなものであってはならない。しかし、社会の仕組み上、何らかの形で社会に貢献できないと自分の基本的人権を守ることすらもできない世の中だ。