Shammer's Philosophy

My private adversaria

甘えや未熟さは社会人失格?

28日に、首相から新型コロナの経済対策について言及があったようだ。

安倍首相 「リーマン時上回る緊急経済対策 10日程度のうちに」 | NHKニュース

新型コロナ対策の自粛で、経済にも影響が及んでいる。政府による何らかの対策がないと倒産や失業が相次ぐ、と色々な人が言っていたが、サービス業のように誰かに来てもらって、誰かに使ってもらって売り上げになる業種が一番ヤバいのは明らかだと思っている。実際には、この規模で自粛が続けば、程度の差はあるが、巡り巡ってほとんどの人が影響を受ける。当然、影響大の人に対する対策が優先されるべき。影響大の人は藁をつかむ思いでこのようなニュースを見ているだろうと想像しているが、このレベルの人には何より現金だろう。消費税や所得税、その他諸々の税金の免除、あるいは延期を認めたところで、そもそも収入がなくなってしまう人には何もならない。輸血しなければ死んでしまうという状態の人に退院後の治療の話をするようなものだ。支出を減らすような対策は、将来的には考える必要があるかもしれないが、まずは必要なところへの現金支給だろう。バラマキだと言う批判、そんな事よりもああすべきこうすべきと言う人もいたが、今一番助けが必要なのは収入がなくなってしまうような人、その援助も現金が一番だと思う。商品券という話もあったが、商品券で家賃払えるのか?口座引き落としにしている支払いに充当できるのか?食事とか日常の現金の支払いだけでなく、口座から引き落とされるような支払いもある。それとも、こういう支払いについては、半年分くらい貯蓄してないその人が悪い、と言われてしまうのだろうか。貯金できる人もいれば、貯金したくてもできない人もいる。貯金できないのは、その人の努力が足りない、忍耐が足りないで自分にご褒美をあげてばかりだからだ、まあ、つまりは貯金できてないその人に何か問題がある、と言う人もいるかもしないが、そういう主張は、結局はこういう事態を予見して貯金できないような人は生きる価値なし、と言っているようなものじゃないのか。しっかり計画を立てて、こういう事態を予測して日頃から我慢しているような人からしたら、こういう時に誰かの援助が必要になってしまうような人を許せないのかもしれない。その気持ちもわからなくもないが、個人的には自分も欠点だらけの人間だから、他の人にそういう欠点があったとしてもそれを責めることはできない。国民一人一人から、そういう落ち度をなくそうと考えるとすれば、その先には国家による恐怖政治とか、厳格管理とかが待っている。そして、その恐怖や抑圧は、いずれ暴動とかになるだろう。

経済は、需要と供給のバランスで動いている。たまたま好きな事や特技が収入につながっている人もいればそうでない人もいる。苦手なこと、取り掛かるだけでもエイヤ!な気分で必死に働いている人と、仕事が楽しくて仕方ないという人がいる。この両者には精神的な負担に差があるはずだが、現状はその差は無視されている。今、仕事が楽しいと言う人達からすれば「自分も最初からそうだったわけじゃない。努力してその状態を勝ち取ったんだ。だからお前も努力してそうなればいい。」というような反応をする人もいるだろう。しかし、これも程度がある。人一倍の贅沢をしたいのであれば、そういう努力が必要と言われてもそうだな、で済ませていいかもしれないが、自分の向き不向きとか性格とか、そういうのを壊さないと生きていくことができなくて、それでも自分を偽り続けるとかそういうのに疲れて何もできなくなってしまった人に努力が足りない、とか甘えとか、そういう言葉はありえない。そういう風に見る人は、どこまで努力できるかで人の価値は決まると思っているのかもしれないが、これは危険だ。こういう考え方がブラック企業を生むのだと思う。

金銭的な負担は、累進課税の仕組みで稼ぎに応じて負担が増えるようになっているが、精神的な負担にそういう仕組みはない。しかし、間違いなくこの負担の差は存在する。表現の仕方は異なるが、ビジネス書の中には、この負担を減らすことが勝ち組になるためには必要と言うものもある。具体的には、努力を努力と感じないような仕事をできるように頑張ろう、そんな説明をしている。だが、これも自分の性格や個性によっては、そういう需要を見つけるのは難しい。そうなれば良いのはわかるが現実はねえ、という話で、そういう需要を見つけるのは、宝くじで10億当てればいいというのと大差ない敷居の高さに感じる人もいるだろう。結局、そういう状態に対しては個人では打つ手がなく、耐え忍ぶか諦めるか、燃え尽きるかくらいの選択しかない。こういう悩みについては具体的な解決策を示すことができないから、努力が足りないとか、世の中そんなに甘くないとか、そういうことしか言えない人が多いのかもしれない。

今のように自粛を余儀なくされるような状態の時は、社会主義の方が都合はよさそうだ。少なくとも、今の日本よりは富の分配を簡単に行えそうだから。富の分配、つまり、現金の支給となると、そこには不満が生じる。現金支給について、様々なニュースのコメントとか見た中では、企業には支援があるのにフリーランスには支援がないという不満、仕事を続けている人には何もないのに休みを余儀なくされる側のみに支給なんて働き損だという不満が記憶にある。フリーランスについては、収入が減っている人についてはとりあえず該当しそうだ。手続きの煩雑さとか、そういうので実質受け取りできないような可能性は今は考えない。逆に、仕事を続けているのにもらえないのは損だ、という不満は残るだろうが、仕事を続けている人は給料もらえるだろう。仕事していても新型コロナの影響で給料払うことができない、というような場合は、その会社は国の支援対象になって、結果的には仕事の対価を受け取ることができるのでは?新型コロナで人手が足りなくなって、その分仕事の皺寄せが来て大変になっている、というのであれば、それは国じゃなくて、会社にかけあうべき内容だと思う。国内にどれだけの企業があるか正確にはわからないけれども、これまでの累積患者数を考えても2000人に到達していないと思う(公表している数字が正しい場合)。企業の数は2000以上あると思うので、そう考えれば新型コロナで誰かが休みになってその皺寄せを受けるとしても、企業あたりに換算すれば一人分もないことになる。さらに、病院とかは複数の患者が出ているところもあることを考えると、企業が新型コロナによる欠勤で受ける人員不足の平均は企業あたり一人未満だ。逆に、病院とか複数の罹患があったようなところは勤務体制に影響があるだろうから、そういうところは国による補助の対象になってもいいと思う(上の記事ではそこには触れていなそうだ)。皺寄せについてもう一つ考えられるのは、在宅勤務の影響はあるかもしれない。在宅で仕事できずオフィスにも行けない、そういう人が増えて、仕事できる人に皺寄せがあるというような場合だが、これも結局はその会社内でどうにかする問題で、国に何か求めるのは違う気がする。あと残るのは、、、働いてないのに国からお金もらえるというのは、仕事している人に対する冒涜だから平等に全員に支給すべきだ、と思っている人もいるかもしれない。そういう人がいる場合、その人は苦しい思いで頑張って仕事しているのだろうけれども、国からの補償とその問題は分けて考えるべきだ、としか言えない。いずれにしても、対象外になって不満を感じる人は様々いるとしても、国としては、本当に明日の生活がどうにかなってしまうという不安のある人に対する補償を最優先すべき、というのは個人的には正しいと思う。

政治経済って、何のためにあるのか。こういうときに考えさせられる。普段は税金を取られてばかりで、この税金を納めなくていいならあれができるのに、とか思ったりするものだが、こういうときに困った人にお金を回すことができるのはメリットだと思う。メリットである以上、この仕組みは維持した方がいいと思う一方で、最初の方で書いた、やりたくない仕事、向いてないと思うことでもやらないといけない、と感じる人には、この仕組みのために税金以外の負担がある。前半で書いたような金銭面というよりも精神的苦痛の側面だ。「みんな頑張らないといけないという空気」の中で頑張っていくための何かが足りない、あるいは、頑張るのを邪魔する余計な何かを持っている可能性がある。そんな状態をなくすために学校教育はプログラムされている。この教育課程を修了すると、企業で、国で、何らかの価値を提供することを求められる。そのとき、自分の提供できる価値が需要のあるものであれば、それはそれほど大きなストレスにはならないと思う。しかし、自分の提供したい価値に対する需要がなければ、生きていくのが非常に困難なのが今の社会。つまり、適材適所の人がいる一方で、残りは自己矯正が求められている。「誰か」のための経済のために、別の「誰か」が犠牲になっている、その犠牲者は自分だと感じる人は、本音では仕事せずに済むなら仕事したくないと思っていると思う。なので、働いている自分も現金支給の対象になるべきと考えてしまいやすいのだろうか。これ、大抵はそう思う人は世の中甘く見るなとか、未熟だとみなされてしまう。実際は、弱さや未熟さだと言っても何も解決しない(黙れと言っているのに等しい)。しかし、そういう表現をする人が多いということは、どこかでその考えを採用して解決した人が多いということではないか。うまい表現が難しいが、弱さや未熟さを許されないと考えて切り捨てるのでなく、それらを持ったまま乗り越えるのが本当の解決なのではないか。それができたときに、そういう苦しみを持っている人に対して思いやりとか優しさで接することができるのだと思う。逆に、弱さや未熟さを許されないものと切り捨てるのは簡単なことなのかもしれない。