Shammer's Philosophy

My private adversaria

高等教育無償化は報われない感を増長させるか?

一昨日くらいから、高等教育の無償化法案のニュースをよく目にする。子供の立場では、経済的理由で進学を断念しなければならない、というパターンを減らすことができるだろうから素晴らしい、画期的な印象はある。むしろ、欧州の人たちからすれば、これがない方がおかしいと思う人もいるかもしれないだろう。

援助、減免額は収入に応じて段階的に決まるようだが、努力して収入が増加したために援助を受けられなくなり、結果的に経済負担増となる世帯がいるのではないかとも思う。そういう人にとっては、頑張っても報われない仕組みの増加にならないだろうか。努力して収入が増えたら嬉しいはずだが、実際にはそうじゃない仕組みがある。これ、どうにかならないのだろうか。条件なし全面無償化を実現できれば収入増加はそのままその人が努力の報酬として感じることができるだろう。実際は努力しなくても会社の業績とかで棚からぼた餅ってこともあるがそれはさておき、、、少なくとも、全面無償化できるだけの財源がないことは事実。結果的に、最初は恩恵を受けることができても努力して収入が増加して恩恵を受けなくなるタイミングが来るかもしれない。そうなった時に、その努力は何だったのか、と思わないでいられるかどうか。。。努力は報われるべきと感じずにいられるかどうか。

結局、「経済的収入」という観点だけで考えると、努力しても報われない、と感じてしまうことは多々ある。では、経済的収入が増えることで自由になれるか、と言えばそうでもない。自分自身が人として成長しないと、どれだけ収入が増えても不自由さ、窮屈さからは脱却できない。でも、それは根性や思い込みや考え方を変えるだけでできるものでもない。実際に努力しては何かを得て、努力しては何かを得て、というのを何度も繰り返して自らの環境を自ら変えて、これまで感じていた不自由さ、窮屈さを解消すると同時に、これまで感じていなかった新たなる不自由さ、窮屈さを手に入れただけだと言うことに気付く必要がある。さらに、それに気付いて「努力したって無駄だ、今の不満を解消してもどうせ新しい不満を手に入れるだけ、大事なのは今楽しいかどうかだ」と、一種のヤケクソ状態をも乗り越える必要がある。それをどう乗り越えるかはいろいろな方法があるだろうが、ここには精神的葛藤がどうしても必要になるだろう。

まあ、教育費の減免を受けられなくなったら損とか感じても、子供の授業料を払う期間は人生全体を考えれば短い。ただ、楽なことじゃないだけに支援対象になるかどうか考えてしまうが、その期間は一歩下がって考えれば自分の人生の中ではわずかな期間でしかない。より先を見裾えて進んでいくのが賢いことだと個人的には思う。