Shammer's Philosophy

My private adversaria

他人から評価されないと生きていけない社会

最近、新型コロナウイルスで、在宅勤務や時差通勤をする人が増えている。一方で、体調が悪くても無理して出社を強要されて、という人もいるようだ。こういうときに体調悪くても出ることを要求するなんて、という声があるが、逆の声もある。根性で乗り切れとか、体調悪いくらいで甘えるなとか。もちろん、人が何か限界に挑戦して、それを達成する姿をみて感動する、ということはあるが、だからと言ってその理屈をこの状況で体調の悪い人にあてはめても、、、個人的にそれは違うと思う。

東日本大震災が大きな分岐点になったと個人的には思っているが(もちろん、それ以前も流れはあったが少数派だった)、一人一人が自分の人生を大切にしたい、という声をあげるようになった。なんとかハラスメントなんて、昭和の時代は「教育」とか「しつけ」とか「洗礼」とか「儀式」とか、何か一種の人生のイベントのような形で、立場の強い人間が立場の弱い人に対して行っていて、反発しようものなら「どうなるかわかってんだろうな」と脅迫めいたことを言われるなんてのはザラだった。それでも、当時の人はそれに耐えてきた。それが世の中だ、それが社会だ、というのが当時の社会通念で、被害者側は泣き寝入りが当然だった。獅子は谷底に我が子を突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるなんて言葉があるが、それを揭げてはこれが正義だ、這い上がることができないやつが悪い、と言ってはそういうことを繰り返してきた。実際、そこで這い上がるために努力するから強くなれる、という考えもできるのかもしれないが、一方で社会に対して泣き寝入りを決めこむ人、諦めて別の生き甲斐を見つけて生きる人、そういうこともできずに苦しむ人もいた。しかし、、、これもインターネットやSNSの普及によってだろうか、過去は声にならなかったが、今はそうした声が誰かの目に止まるようになってきた。そして、その数は非常に多い。インターネット普及前、それこそ昭和や平成初期は、横暴にしても被害者は声をあげたくてもその声を誰かに届ける手段を知らなかった。実際はなんとかコールとか、そういうのを助けるNPO組織とかあったのかもしれないが、それらを知らない、知っていても他の要因でそこに声をあげることができない、そんな状態だったのではないかと予想する。それがインターネットの普及、さらにSNSが普及したことで、これまでと比較にならないほどの労力で発信できるようになった。そして、教育やら何やらの大義をかかげて誰かをいびり続ける人が自らを正当化する主張だけでなく、その大義によって苦しむことになった人の主張も誰かの目にとまることになってきた。今にして思えば、インターネット普及前は、不特定多数の人に何かの主張を訴える方法はテレビ、新聞や本・雑誌への投稿など、限られた人しかできなかった時代だった。つまり、少数の人に情報の発信源を掌握されていて、発信したいと思っても発信できなかった時代だったということだ。それがインターネットやSNSの普及で大きく変わり、これまでは被害者側が泣き寝入り状態だったような人も発信はできるようになった。当然、泣き寝入りだった人は多いので、以前とは比較にならない様々な意見がインターネット上には出ることになる。誰か一人の主張だとワガママと言われてしまっても、同意する人が多くなればワガママで片付けることは難しくなってくる。この流れが少しずつ進んできたところで、リーマンショックがあり、東日本大震災があり、結果として、「チームワーク」という大義だけで社員を隷属させているだけで、、、会社・企業には、厳しい教育(?)をする見返りに人生を保証する力がもうないことが誰の目にも明らかになった。副業禁止としていた企業が副業を認めたり、過去と今の転職に対する意識の違いがその証拠だ。

過去と比較して、相当自由になっているが、それでも人はまだ縛られている。企業や会社からの束縛はかつてより弱くなっているが、それでも目に見えない何か、空気とか文化とかそういう表現しかできない何かが、一人一人を束縛している。これが何か、その答えのヒントになったのが体調悪いときの状態。自分が休めば誰かに迷惑がかかるという思いに始まり、休めば収入が減って生活が苦しくなるという状態、その状態をどうにかしようと政府が特別休暇を援助するようなことを言えば、誰かの休みで皺寄せを受けることになった人も、その皺寄せに対しては誰も認めてくれないと不満を感じる。立場はみんなバラバラに見えても、根底は同じじゃないかと感じる。それが、他人からの評価で生きている、という点。休む人は、休んだことで迷惑をかけてしまう、というのは、仲間に迷惑をかけることで仲間からの評価が悪くなってしまう、ということにつながっている。会社が特別休暇というものを認めれば、そこを心配せずに体調悪い人は休みを取ることができるようになるだろう、ということで政府は特別休暇に対しての援助を訴えたのだと思うが、そうすると、その穴埋めをした人にもそういうのがないのはやるせない気持ちになる、という主張も出てきた。もちろん、ここでは金銭的な報酬以上に単純に人としての感謝みたいなのを求めることも含まれるのかもしれないが、頑張ったことを認めてほしいという気持ちがあるのは間違いないだろう。

この他人から評価されないといきていけない社会、これは、評価されて始めて収入になるという、社会では、少なくとも日本の社会では、ごく当たり前と思われている仕組みがあるためだ。誰からも評価されないということは仕事をもらえないということに直結し、仕事をもらえないことは収入がなくなることにつながり、収入がなくなると生活の基盤を失うからだ。詳細はわからないが、生活保障という仕組みもあるので、そうなっても生きていくことはできるのかもしれないが、そうなると申し訳なさのようなものを感じるかもしれない。身近に生活保護を受けている人を根性なしのように言う人がいたとしたら、苦しくても頑張って仕事している人もいるのに自分はそれができずに保護を受けることになってしまった、自分もそう思われるかも、と自分を責めるかもしれない。結局、生きることはできても自分を責める。まあ、中にはそうじゃない人もいるかもしれないが。

他人から評価されて始めて仕事をもらえて、それで生活できる仕組みは、みんな努力するのが当然だと考えれば、別に悪いものじゃない。しかし、一方でうまい仕組みを作って楽して生きる人、楽して生きるというか、実質搾取するだけの人がいる。単純なのは詐欺や泥棒か。複雑なのはもっと悪質。例をあげるのは難しいが、テロの上層部と実行部隊のような感じだろうか。そういう人は社会の構造を搾取できる立場と、搾取される立場の人に分けたままにしておきたいと思っている。努力しても報われないことがあっても、それに対して、短期的には報われなくても長い目で見ればそんなことはない、と言ってごまかす。本当にそういう場合もある。でも、搾取する側とされる側に分かれていて、ごまかしの陰で、誰かの努力を奪う人がいる点を見逃しているのかもしれない。奪うのでなく、代わりにやらせているようなこともある。そういう人は、評価されないといい生活はできない、という構造を維持しつつ、自分は搾取を続ける。でも、一度その世界に入ると、その世界では、みんながこういうものと考えていて疑問を持たず、その世界での道理としても成立させているから、そこを変えるという発想すらでてこない。むしろ、変えると主張すれば、お前は莫迦か、と言われる。

この世界というのは、たぶん日本全体、考え方によっては地球全体かもしれない。日本では、無意識のうちに他人から評価されないといきていけないと思い込まされているとしたら、しかも、その犯人がいるわけじゃなくて、なんとなくみんなでそう思っているからそうなってしまっているのだとしたら、他人から評価されなくても生きていけるんだ、というように意識変換することは、自分の人生だけじゃなく、社会もよくすることにつながっていくと信じたい。

日本では、子供をしつけるときに「迷惑をかけてはいけない」と言って子供を叱る。しかし、世界には、迷惑をかけられるのは当たり前、迷惑をかけられたくらいで腹を立てるな、と叱る国もある。どちらが正しいのか?この「迷惑をかけてはいけない」という言葉が「他人から評価されないと生きていけない」という社会を創り、自らを苦しめることになっているのではないかとも思う。