Shammer's Philosophy

My private adversaria

HTML Escape Converter by Shell

HTMLのエスケープ文字、昔は   とか > とかを使用していたが、HTML Codes - Table of ascii characters and symbols
によればこれは HTML Name と呼ばれるもので、これと別にHTML Number というのがあるようだ。HTML Name は一部の文字にしか割り当てられていないが、HTML Number というのはほぼ全てのASCII文字に割り当てられていそう。どうせならこっちを使う方がよさそうなので、HTML Number でエスケープすることにした。

問題は、過去に作成したHTMLではHTML Nameを使用していること。EmacsLispとかで文字変換させたりしているので、そのような場合に面倒になるかもしれない。というわけで、これらを置き換えることを考える。sed を使えばできそうなのでやってみる。Bash で二次元配列を使いたいので、ついでにそのサンプルにもなる。とりあえずは二次元配列。

PAIRS=('   ' '< <' '> >' '& &' '" "')
for i in "${PAIRS[@]}"
do
    PAIR=(${i[@]});
    echo ${PAIR[0]};
    echo ${PAIR[1]};
done

実行結果は以下。

$ PAIRS=('   ' '< <' '> >' '& &' '" "')
$ for i in "${PAIRS[@]}"
> do
> PAIR=(${i[@]});
> echo ${PAIR[0]};
> echo ${PAIR[1]};
> done
 
 
<
<
>
>
&
&
"
"

とりあえず、ここから進めていく。エスケープして sed に渡さないといけないので、そこだけ気をつけないといけなそうだ。

VAIO S14 でシステムリカバリを試す

VAIO S14 を購入した。Windows 10 Home がインストールされているが、Debian を入れるのでこれはどうでもいい。ただ、何かのときに(手放すとき?)元の状態にしなければならないので、それが出来るかを試した。大きな流れは、

  1. リカバリ用のUSBディスクを作成
  2. 既存パーティションを全て破壊してDebianをインストール
  3. 作成したリカバリ用ディスクを使用してリカバリを試す

1は、Windowsの初期設定をやって、フォーマット済のUSBドライブをUSBポートに接続して、回復ドライブの作成というアプリを起動しウィザードに従うだけ。製品同梱のマニュアルにある通りなので特に問題はないはず。2も、とりあえず今は既存パーティションを全て削除するだけだからこの記事では詳細は割愛(たぶん指紋認証バイスのドライバだと思うが、これは別途用意する必要がありそうだった。これは自分用メモ)。そして、この記事では2まで完了して完全にWindowsの面影がなくなったVAIO S14 に対して、リカバリをしたときの手順というか写真をアップしておこうと思う。

 

まず、起動はVAIOを完全に停止して、F3かF4を押しながら電源を入れる。そうすると次のような画面になる。

VAIOレスキューモード初期画面

VAIOレスキューモード初期画面

ここで、USBメモリーやディスクから起動をクリックした。たしかそうだったはず。そうすると次の画面になる。

キーボードレイアウトの選択画面

キーボードレイアウトの選択画面

ここではIMEのまま次の画面に進む。英語配列モデルだが関係なし。

オプションの選択画面

オプションの選択画面

パーティションを完全に削除していると、上のような画面になる。ディスクにリカバリ用のパーティションがある場合はもう一つ、SSDからリカバリさせるためのオプションがあったはず(次の画面だったかもしれない)。ここではトラブルシューティングを選択して進む。

トラブルシューティングの画面

トラブルシューティングの画面

ここでは、ドライブから回復するを選択して進む。

ドライブから回復する画面

ドライブから回復する画面

インストールされているDebianを消去してWindowsに戻すので、ドライブを完全にクリーンアップするを選択して進む。

最後の画面

最後の画面

ここで回復をクリック。そうするとリカバリが開始される。以下の画面でしばらく待つ。

回復中の様子

回復中の様子

ここで100%までいくと、またWindows10の初期設定を行えるようになる。コルタナなんてものができていたとは知らなかった。

高等教育無償化は報われない感を増長させるか?

一昨日くらいから、高等教育の無償化法案のニュースをよく目にする。子供の立場では、経済的理由で進学を断念しなければならない、というパターンを減らすことができるだろうから素晴らしい、画期的な印象はある。むしろ、欧州の人たちからすれば、これがない方がおかしいと思う人もいるかもしれないだろう。

援助、減免額は収入に応じて段階的に決まるようだが、努力して収入が増加したために援助を受けられなくなり、結果的に経済負担増となる世帯がいるのではないかとも思う。そういう人にとっては、頑張っても報われない仕組みの増加にならないだろうか。努力して収入が増えたら嬉しいはずだが、実際にはそうじゃない仕組みがある。これ、どうにかならないのだろうか。条件なし全面無償化を実現できれば収入増加はそのままその人が努力の報酬として感じることができるだろう。実際は努力しなくても会社の業績とかで棚からぼた餅ってこともあるがそれはさておき、、、少なくとも、全面無償化できるだけの財源がないことは事実。結果的に、最初は恩恵を受けることができても努力して収入が増加して恩恵を受けなくなるタイミングが来るかもしれない。そうなった時に、その努力は何だったのか、と思わないでいられるかどうか。。。努力は報われるべきと感じずにいられるかどうか。

結局、「経済的収入」という観点だけで考えると、努力しても報われない、と感じてしまうことは多々ある。では、経済的収入が増えることで自由になれるか、と言えばそうでもない。自分自身が人として成長しないと、どれだけ収入が増えても不自由さ、窮屈さからは脱却できない。でも、それは根性や思い込みや考え方を変えるだけでできるものでもない。実際に努力しては何かを得て、努力しては何かを得て、というのを何度も繰り返して自らの環境を自ら変えて、これまで感じていた不自由さ、窮屈さを解消すると同時に、これまで感じていなかった新たなる不自由さ、窮屈さを手に入れただけだと言うことに気付く必要がある。さらに、それに気付いて「努力したって無駄だ、今の不満を解消してもどうせ新しい不満を手に入れるだけ、大事なのは今楽しいかどうかだ」と、一種のヤケクソ状態をも乗り越える必要がある。それをどう乗り越えるかはいろいろな方法があるだろうが、ここには精神的葛藤がどうしても必要になるだろう。

まあ、教育費の減免を受けられなくなったら損とか感じても、子供の授業料を払う期間は人生全体を考えれば短い。ただ、楽なことじゃないだけに支援対象になるかどうか考えてしまうが、その期間は一歩下がって考えれば自分の人生の中ではわずかな期間でしかない。より先を見裾えて進んでいくのが賢いことだと個人的には思う。

 

send syslog message via netcat on Debian 9.5

I want to write a syslog client libraries in common lisp. It is sufficient just to be able to send a message on udp

 

At first, open udp port 514 by editing /etc/rsyslog.conf. I just updated following 2 lines.

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I can't access openlab.jp supporting SKK

I want to setup my new MacBook Pro, but I can't access DDSKK support sites. So, I got ddskk source code from github.com in order to install it. Here is the procedures.
  1. curl -O -L -v https://github.com/skk-dev/ddskk/archive/ddskk-16.2_Warabitai.tar.gz
  2. tar xvzf ddskk-16.2_Warabitai.tar.gz
  3. cd ddskk-ddskk-16.2_Warabitai
  4. edit SKK-CFG
  5. sudo make install EMACS=/Applications/Emacs.app/Contents/MacOS/Emacs

The last section of SKK-CFG should be like below.

;;; Apple OS X における self-contained な Carbon/Cocoa Emacs の設定例:
(setq SKK_DATADIR "/Applications/Emacs.app/Contents/Resources/etc/skk")
(setq SKK_INFODIR "/Applications/Emacs.app/Contents/Resources/info")
(setq SKK_LISPDIR "/Applications/Emacs.app/Contents/Resources/site-lisp/skk")
(setq SKK_SET_JISYO t)

 

一人の主張は我侭と言われるが・・・

今年も間も無く終わる。今年一年を振り返ると、ずーっと一つのことばかりを考えてきた気がする。それは、個の埋没について。抽象的な言い方だが。

3.11を境に、これまでは仕方ないと諦めてきたあることについて、多くの人が意見を言うようになった気がしている。それは、自分自身の気持ちを大切にする生き方。高度経済成長の時代の名残なのか、社会には会社、仕事での責任こそ最優先で果たされるべき課題で、一人一人のこうしたい、ああしたいということは二の次というか、それをしたいならまずは仕事をしろという風潮、俗っぽい言い方をすれば、「働かざる者、喰うべからず」というのが当然の時代が続いてきた。その結果、個人個人の気持ち以上に、何か別の社会正義(企業理念とか)を優先することを無意識のうちに強制され、それが当然とされる時代が続いていた。そういった課題のようなもの以上に自分の都合を優先すると言うと、我侭だとか無責任だとか、そう言われても文句を言えず、自分以上に自分以外の何かを優先するという時代が続いていたように感じる。この流れが3.11で変わり、双方のバランスが大切だという意見、なんとかハラスメント問題を根絶しようという動きなど、これまでの社会、自分以上に他者を重視するのが当然とされてきた価値観を見直すような時代になりつつあるのではないかと感じる。

昭和の時代、それこそ体罰なんて当然だった。医学的には非合理でも、心を鍛えるという「正義」を揭げて、夏の炎天下のスポーツの部活でも水を飲んではいけない、水を飲むということは自分の弱さに負けるということだ、というようなことや、何かに失敗したら筋トレの時間を倍にするとか、みんなの前で恥をかかされるような罰ゲームのようなことをするのが当然とされていた。お酒を飲めない人が飲まないと言うと、ノリが悪いとか、先輩の言う事を聞けないのか、的な発言で拒否するようなことが許されない空気があった。このような空気の社会を自ら作りだしつつ、「社会は厳しいところだ」と後輩に教えていく。このような負の連鎖が会社、学校など、一般的に「社会」と呼ばれるようなところで日常的に行われていた時代がある。今で言えば、とんでもないということもある。こうした社会を生き抜いて来た世代の人の中には、今の時代はたるんでいる時代に見えるのかもしれない。

過去、こうしたことをされてきた人も同様のことを感じなかったのかと言えば、決してそんなことはないだろう。それでも否定できない事情があったのだと思う。個人的には、年功序列、終身雇用、退職金の三本柱で個人の一生を社会が保証されていた、ということがあるのではないかと思っている。理不尽と思える苦しいこと、キツいこと、人権侵害と思えるような内容でも、一生の保証がされている以上、そういうものも必要悪として耐えに耐える人生を送るのが当然だった時代じゃないかと思う。

しかし、バブルの崩壊でその一角が崩壊する。年功序列というものがなくなり、働いても働いても大した昇給は期待できなくなった。しかし、それだけでなく時間の経過とともに退職金ももらえなくなる人が増え、終身雇用もほとんど崩壊した。その一方で、体罰やらハラスメントやらだけは慣習というか文化のような感じで残った。これに耐えるのはもうやめたい、そう叫ぶ人が出てきたのがリーマンショックによる雇用不安、そして3.11がそれを決定的なものにしたのではないかと思っている。そして、某企業で起きた過労を理由にした自殺などがこの流れにさらに拍車をかけた。経済格差の拡大も既存社会のあり方を疑問視する声としては見逃せないと思う。多様性とかダイバーシティという言葉が流行り出しているのもその一端ではないだろうか。他にもいろいろあるだろうが、究極するところは「自分の人生を満足に生きたい。誰かの、社会の犠牲になったとしか感じられないような生き方はしたくない。そう思うのは我侭なのだろうか。」という叫びではないかと自分は思う。

バブルの崩壊前の時代に、もっと自分の時間を大切にしたい、なんてことを言ったら、それこそ怠け者のレッテルを貼られて、社会人として再教育が必要というような雰囲気だったのではないだろうか。バブル時代、自分は小学生くらいだったから具体的にはわからないところもあるが、漠然とそんなことを感じている。しかし、時代は変わって、多くの人が自分の気持ち、自分の人生を大切にする、大切にできるような生き方を求めるようになったと思う。テレワークなどの導入、副業の解禁なども、個人としての生き方を尊重するために必要な仕組みとして、もっと拡まってほしいと思う。どこでも好きなところで働きたい、そんなことを言うと、我侭だとしか言われなかった時代から、「それが普通じゃない?」と言う社会になってほしいと思う。