Shammer's Philosophy

My private adversaria

速読熱が冷めた理由

結局、自分の中で「速読」に対する熱は冷めていった。読書は、旅のようなものだと思う。
一つのところをさっと見て、できるだけ多くの場所に行きたいという人もいるだろうし、
多くの場所に行かなくてもいいから、行った旅行先をじっくり楽しみたい人もいるだろうし。
最近は仕事の都合上、技術の本ばかり読んでいるが、本当に好きなのは小説だ。そして、
小説というものは「速読」とマッチしないと思う。ストーリーを追って楽しむだけの小説ならば、
「速読」で読めばいいかもしれないが、考えさせるような小説は「速読」に向かないと思う。
何か自分の悩んでいることについて、直接的な答えを出さずに、婉曲的な描写で言葉にできない何かを
浮かび上がらせるような力のある小説は、さっと読んだだけでは味がわからない。
行間を読むという言葉があるが、それ以上に行間を掘り起こす作業を自分でしなければならない。
掘り起こすというのは、書き手の意図よりもさらに深く、書き手のアウトプットを踏み台にして、
その上をいくような考えを自分で見つけることだ。これは、非常に考える力が必要だ。
これをやらないと、どんなに多くの本を読んで、誰かにその内容を伝えたとしても、
その言葉の真意というか、自分の思いもそれほど伝えられないのではないだろうか。


多くの本を読んで、そこからいろいろなものを学んでいけば、
やがてその人独自の価値観を持てるようになると思う。
しかし、一つの本(もちろんその本にそれだけの深さがないといけないが)を
とことん読み込んでいくことでも、独自の価値観を持てるようになるだろうと思う。
多く読むこと、深く読むこと、どちらでもいいと思うけれど、漫然と読むのではなく、
真剣に取り組んでいけば辿り着くところは同じにならないか、と感じた。
別に速読にこだわらずとも、成長したいという気持ちが本当で、それなりの努力をしていれば
結果はついてくるような気がする。読むことで軌道修正し、実際にその軌道を歩く。
成長するというのは、これの繰り返しなんだと思う。