Shammer's Philosophy

My private adversaria

新型コロナのニュースを見ていたらいつの間にか人権について考えていた

新型コロナのドタバタの渦中に、様々な政治的な動きも出ている。9月入学への変更、ここ数日話題の検察官定年問題とか、気をつけていないと埋もれてしまうようなものもある(ニュースにならないと気付かなかった)。その一方で、給食や外食がなくなっている、あるいはみんな行かなくなっている等で廃棄になる食材も多い。政府がこういう食材を買い上げて生活苦しいという人にこうした食材を回すとか、こういうことできないものだろうか。

そして、自粛警察なるものも気になっている。感染拡大防止に貢献しない人を糾弾する、というのが彼等の正義のようだが、本当に正義が非常に疑わしい。実際食事を買ってきて済ませないといけない人もいるだろう。こういう人が持ち帰りしても、待ち時間で密にならないように工夫すれば感染拡大に貢献することもないだろうが、こういうところも自粛警察は見境なくターゲットにしているようだ。でも、彼等の感覚では「人が出掛ける」のはどんな場合でも感染拡大を誘発しかねない避けるべき行為に見えているのではないかと思う。こんな莫迦な話はないと個人的に思う。そんなこと言ったら最低限の買い出しすらいけなくなってしまう。

感じ方は人それぞれと言っても、生活環境が類似していれば、暗黙のルールのようなものを共通で持つことになる。日本では忖度が美徳とされるようなところがあり、自粛という表現を忖度すると、今の状況では「禁止」と捉える人が一定数いる。「禁止」と理解している人に取っては、外出している人や外出の要因となる店舗の営業は許せないのだと思う。しかし、「禁止」と理解していない人は、必要最低限の範囲で行動する。ここにも落とし穴があって、必要最低限の感じ方も人それぞれ違う。あの人の必要最低限は許されるのに、なぜ自分の必要最低限は許されないのか、あちこちでこんな議論があると思う。そして、そういういくつもの声が政治に届いて、声がありすぎて線引きできなくしてしまっているように思う。簡単な言葉で片付ければ優柔不断ということになるが、実際線引きを決定したときにその境界付近の人はいろいろ文句を言うだろう。この文句が出ないようにすることは不可能だ。文句が出てもそう決めたから、と突き進むしかないのが政治だ。このときに、できるだけ多くの人に納得してもらえる案を選択する必要があるのは言うまでもないが、全ての人に納得してもらえる案なんて10人程度を相手にするのであればあるかもしれないが一億以上の人を対象にそんな案を出すなんて不可能に近い。結局、どんな選択をしようと一定数の人はその選択に不満を感じる結果になる。

しかし、時にこの不満というのが毎回同じような人に集中することがある。一部の同じ人達が常に貧乏クジを引かされるというか、そうなったらその人達はたまったものではない。一般的には社会的弱者という類の言葉で表現されるが、突き詰めて見れば経済的に困窮している人になることが多い。賭け事では絶対に胴元が勝つ、という理屈と同じだ。この敗因は勝負の実力じゃない。元手がなくなれば土俵にすら上がることができないという仕組みのためだ。どんなに実力があっても元手がなければ勝負すらできない。言い換えると、連続で何回負けたときに元手がなくなるか、という話で、一般的には挑戦者よりも胴元の方が体力がある。10連敗して元手がなくなってしまう人と100連敗しても平気な人であれば、長期的に見れば100連敗しても平気な方が生き残る。不測の事態に陥ったとき、体力のある方が強い。体力がなくなりそうな状態の人とそうでない人とでは危機の感じ方も違う。一刻でも早く自粛生活が終わってくれないと困る、と感じている人の中には、それを邪魔する人の存在を許せない人がいるだろう。ゆとりのある人が危機を感じている人を救ってやることができるかと言えば、それはできないだろう(一人二人ならどうにかできることもあるかもしれないが)。では、危機感のために自粛警察になってしまっている人をそのままにしておけというのか、というかと言えばそうでもない。仮に自分がそういう状態の人を目の前にしたとすれば、冷静な話をすること自体も非常に難しく、相手のその行為を止めることはできないだろうと思う。というよりも、中途半端に関わってイタイ思いをしてしまう危険性を感じて避けようとしてしまうと思う。ただ、心の中では、自粛警察の行為がプラスに働く可能性はほとんどなく、直面している危機に対しても何も効果がなく、自己満足にすらならず、余計に自分自身の中の不安な気持ちを増長させる以外の効果しかないことに気付いてほしいと思う。

自分から見た自粛警察の行為の効果はこんな程度だが、それでもなぜこれをやってしまう人がいるのか。これは「正義」に見えてしまうからだと思っている。みんなで一致協力して問題の解決に取り組まないといけない、というときに、協力しない人や和を乱す人がいると解決が遅くなる。また、本来100ある仕事を100人で分担すれば一人当たりは1の仕事量だが、やらない人がいると一人当たりの仕事量は1以上になる。1以上の仕事をした人は、ズルいとか不公平だとか、そういう感情を持つだろう。このズルさとか不公平さを埋めるために、賞罰という仕組みを導入してそれを解消しようとしている。少なくとも、多くの企業組織はそういう「前提」で動いている。が、この「自粛要請」なるものには企業組織にある賞罰の仕組み、つまり、このズルさとか不公平さを裁く仕組みがない。個人的には、仕組みも権限もない以上は誰も裁くことができないと思っているが、この「賞罰」なるものが社会では前提というか当然の空気がある。そういう感覚の人にしてみれば、ズルさや不公平さを放置できないのではないかと思う。放置できないがために、実際に非難するような行動を取ってしまうと思われるし、同時に、企業組織では「賞罰」は当然だし国家でも法律というものがあり違反者には「罰則」があるのが当然であるため、違反しているのに裁かれないのが不条理と思って、それがああいった行動につながっているのではないかと思う。

だが、先に述べたような「あの人の行動は違反じゃないのに自分の行動は違反とされる、それが納得いかない」という主張もある。こういう主張に対しては、ルールを決めた人以外にその是非は判断できないだろう。しかし、ルールを決めた人と不条理に感じている人の感覚が同じかと言えばそうでもないため、感覚の違う人はルール自体に不満を持つことが予想される。では、その人達が不満にならないようなルールにすればよいかと言えばそうでもなく、新ルールになったところで別の誰かがそのルールに不満を持つ結果になるのも明らかだ。結局、一人一人がある程度の判断基準を持っていて、みんな自分の基準が正しいと思っている。ここから考えると、自粛警察なるものは、全体のルールに従っていると見せ掛けながら実際には自分のルールで誰かを非難しているだけという話になるが、そういう方向に話を進めてしまうと何も解決しない。

正義の使徒のような自らの行動に酔っているタイプの自粛警察は他の人から叩かれてしまえと思うが、危機感故に自粛警察になってしまっている人には援助が必要だと思う(自分にその力があるわけではないが)。その危機感をなくすには、しっかりした補償が必要なのだが、この補償のことになると邪魔をするのが上述の社会の成り立ちのような話だ。一律支援に反対の人にはこの考えが多いのではないかと予想するが、こういう状態になっても耐えられるだけの力がある人は、自らをそういう状態に置くために人一倍の努力をしている人が一定数以上いるのだと思う。アリとキリギリスの話ではないが、某大臣や官僚の中に、何もないときから自らの楽しみを抑制して、危急の時でも不安にならないような状態にする努力をしている人からすれば、普段は自分へのご褒美というような形でそこそこの楽しみを享受しながら生活をしていて、こうなったときに政府の援助を宛にするというタイプは助けたくない、と考えている人が一定数いるのではないかと感じている。一律支援になる前に、支給されるべき人はこういう人だと様々な条件を考えていたが、その中に収入がこれだけ減った人、というものがあった。裏を返すと、その基準くらい減ってしまったらさすがにどうしようもないだろう、という「思いやり」がある一方で、「そこまで減ってないのに支援が必要ってそれは日頃からの備えが足りないだけでしょう。国の財布はそんな人間を助けるためには使いたくない。」という「厳しさ」がどこかにあったと思っている。もちろん、そういう人もいるかもしれない。だが、その「厳しさ」は社会主義的な考えだ。今回のような危機的状況、あるいは老後のこととかを考えて、貯蓄しておかなければならない、貯蓄のためには楽しみを我慢しなければならない、それは価値観の押し付けだ。でも、あなたのしていることは価値観の押し付けです、と言っても、それは間違いなく否定されると思っている。そのとき言われるのは「世の中そういうものだ」とか「世の中を甘く見るな」とか、そういう類のことだ。世の中を変えていかなければならないと主張する人がいたとしても、この点を変えるという発想は出てこないだろう。しかし、この「厳しさ」ゆえに生きにくさを感じている人もいると思う。自分自身と戦うことで、この「厳しさ」の中でも勝利を掴みとることができる人はいいが、そもそも自分自身と戦えない人、あるいは、戦っても敗れて再起できなくなってしまった人、こういう人に対して冷たいと言わざるを得ない。社会の仕組みとかルールを考える立場の人が、この競争の中で勝ち抜いてきた人であるために、その競争自体に問題があるとは思えないのだと思う。この競争を否定することは、その人の努力のようなもの、あるいは人生全てを否定することに等しい。

この観点で考えると、今の社会は競争に勝つことができた人がその競争の仕組みを維持し続ける社会になっている。理由はどうあれ、競争に勝てないために経済的困窮から生命の危機を感じる人の一部が、防衛的に自粛警察のような行動をとってしまう。表面的にはそれだけだが、どうしてそういう人が出てきてしまったかというところまで考えると、「生き残るためには勝つしかない、勝つためには何かを犠牲にしなければならない」ということを、受験戦争や新卒一括採用という社会の仕組みから学んでしまうからだと思っている。受験戦争に突入するまでは、子供は勉強についていけない友達を助けようとする。しかし、一度受験戦争に突入すれば、他の誰かがわからない何かを自分がわかっていることはアドバンテージになるために、それを他の誰かに共有しようとしなくなる。こういう雰囲気の中で、自分のことは自分でどうにかしなければならない空気が生まれて、できないのは自己責任とされる。こういう中で自己錬磨を続けて最後まで勝ち続けた人が、それぞれの組織の中でトップに立ったとして、その人達がどういう組織風土を作るのか。営利企業であれば、数字重視の競争組織でもまだよいかもしれない(少なくとも今の時点では)。しかし、数字を追求してもブラック企業になってしまうようなことは許されない。実際は数字のために社員に犠牲を強いる企業もたくさんありそうだが。

では、国はどうか。当初の経済支援は、住民税非課税くらいまで収入が落ち込んだ人が対象とされていたが、落ち込み幅がそこまででない人は自己責任で乗り切るべきとでも思っていたのだろうか。現実的には国には国の財布の事情もあるから助けたくても限度もあるのかもしれないが、財布の事情故に支援対象を制限しようとしていたのか、気持ち的な事情から財布にかこつけて支援対象を制限しようとしていたのかはわからない。しかし、個々人の得手不得手、長所短所がどのようなものであるか、つまり、この人は私にとって役に立つから大切、この人は私には役に立つ能力を持ってないからどうでもいい、という考えでなく、一人一人の基本的人権を尊重する立場であってほしい。基本的人権は、何かの交換条件で得られるようなものであってはならない。しかし、社会の仕組み上、何らかの形で社会に貢献できないと自分の基本的人権を守ることすらもできない世の中だ。

新型コロナの補償、やっぱりまずは一律で支給すべき?

先月末に、政府から現金支給を検討していると発表があって、それがどうなるか見ていたら自己申告で世帯あたり30万円というものだった。

金額上乗せ、サプライズ狙う 30万円給付、緊急宣言意識か 安倍首相(時事通信) - Yahoo!ニュース

正直、少し前は生活が苦しくなった人を対象にするのがいいと思っていたが、でもすでに生活費のやりくりができなくなっている人のことを考えると、何も考えずにまずは支給する、が正解に思えてきた。何も考えずに支給すれば、受け取る必要のない人にも支給されることになり、不公平だと言う人がいるが、その不公平さは今は後回しにすべきだと思う。不公平だと言われないようにする方法を考えて支給が遅くなるくらいなら、不公平でもなんでもとりあえずバラまいて、困っている人を救うのが正しいのではないかと。

個人的には、この状態で不公平とか何とか言っているような状況ではないと思う。こうあるべきだ、という状態を議論している間に、誰かの生活が破綻する。新型コロナと関係ない破産や倒産まで援助するのか、その線引きが必要とかいう議論もあるようだが、その議論とか確認の最中に、その確認の結果として正当に支援されるべきと判断される人への支援が遅れて手遅れになるかもしれない。要するに、ドサクサに紛れて支援されてラッキーみたいな人は対象にしないように、という意見があるのかもしれないが、その主張の正当性に従うことで本当に助けるべき人への支援が遅くなって助けることができなかった、個人的に、そういう状態にはしないで欲しいと思う。

支援や補償をどうすべきかについては、一人一人意見が違う。対象を限定する場合、支給対象外になったこと自体にクレームを言うような人はさておき、ある程度納得できる形での支給は実現されるかもしれないが既に手遅れだという人も出るかもしれない。対象を限定しない場合、あの人は不要でしょというような声も出てきそうだが、今すぐに支援が必要な人は助けることができる。その場合でも金額によっては間に合わない人もいるかもしれないが、こういうことを考えていて支援が遅くなる、というのが一番最悪な流れだ。

甘えや未熟さは社会人失格?

28日に、首相から新型コロナの経済対策について言及があったようだ。

安倍首相 「リーマン時上回る緊急経済対策 10日程度のうちに」 | NHKニュース

新型コロナ対策の自粛で、経済にも影響が及んでいる。政府による何らかの対策がないと倒産や失業が相次ぐ、と色々な人が言っていたが、サービス業のように誰かに来てもらって、誰かに使ってもらって売り上げになる業種が一番ヤバいのは明らかだと思っている。実際には、この規模で自粛が続けば、程度の差はあるが、巡り巡ってほとんどの人が影響を受ける。当然、影響大の人に対する対策が優先されるべき。影響大の人は藁をつかむ思いでこのようなニュースを見ているだろうと想像しているが、このレベルの人には何より現金だろう。消費税や所得税、その他諸々の税金の免除、あるいは延期を認めたところで、そもそも収入がなくなってしまう人には何もならない。輸血しなければ死んでしまうという状態の人に退院後の治療の話をするようなものだ。支出を減らすような対策は、将来的には考える必要があるかもしれないが、まずは必要なところへの現金支給だろう。バラマキだと言う批判、そんな事よりもああすべきこうすべきと言う人もいたが、今一番助けが必要なのは収入がなくなってしまうような人、その援助も現金が一番だと思う。商品券という話もあったが、商品券で家賃払えるのか?口座引き落としにしている支払いに充当できるのか?食事とか日常の現金の支払いだけでなく、口座から引き落とされるような支払いもある。それとも、こういう支払いについては、半年分くらい貯蓄してないその人が悪い、と言われてしまうのだろうか。貯金できる人もいれば、貯金したくてもできない人もいる。貯金できないのは、その人の努力が足りない、忍耐が足りないで自分にご褒美をあげてばかりだからだ、まあ、つまりは貯金できてないその人に何か問題がある、と言う人もいるかもしないが、そういう主張は、結局はこういう事態を予見して貯金できないような人は生きる価値なし、と言っているようなものじゃないのか。しっかり計画を立てて、こういう事態を予測して日頃から我慢しているような人からしたら、こういう時に誰かの援助が必要になってしまうような人を許せないのかもしれない。その気持ちもわからなくもないが、個人的には自分も欠点だらけの人間だから、他の人にそういう欠点があったとしてもそれを責めることはできない。国民一人一人から、そういう落ち度をなくそうと考えるとすれば、その先には国家による恐怖政治とか、厳格管理とかが待っている。そして、その恐怖や抑圧は、いずれ暴動とかになるだろう。

経済は、需要と供給のバランスで動いている。たまたま好きな事や特技が収入につながっている人もいればそうでない人もいる。苦手なこと、取り掛かるだけでもエイヤ!な気分で必死に働いている人と、仕事が楽しくて仕方ないという人がいる。この両者には精神的な負担に差があるはずだが、現状はその差は無視されている。今、仕事が楽しいと言う人達からすれば「自分も最初からそうだったわけじゃない。努力してその状態を勝ち取ったんだ。だからお前も努力してそうなればいい。」というような反応をする人もいるだろう。しかし、これも程度がある。人一倍の贅沢をしたいのであれば、そういう努力が必要と言われてもそうだな、で済ませていいかもしれないが、自分の向き不向きとか性格とか、そういうのを壊さないと生きていくことができなくて、それでも自分を偽り続けるとかそういうのに疲れて何もできなくなってしまった人に努力が足りない、とか甘えとか、そういう言葉はありえない。そういう風に見る人は、どこまで努力できるかで人の価値は決まると思っているのかもしれないが、これは危険だ。こういう考え方がブラック企業を生むのだと思う。

金銭的な負担は、累進課税の仕組みで稼ぎに応じて負担が増えるようになっているが、精神的な負担にそういう仕組みはない。しかし、間違いなくこの負担の差は存在する。表現の仕方は異なるが、ビジネス書の中には、この負担を減らすことが勝ち組になるためには必要と言うものもある。具体的には、努力を努力と感じないような仕事をできるように頑張ろう、そんな説明をしている。だが、これも自分の性格や個性によっては、そういう需要を見つけるのは難しい。そうなれば良いのはわかるが現実はねえ、という話で、そういう需要を見つけるのは、宝くじで10億当てればいいというのと大差ない敷居の高さに感じる人もいるだろう。結局、そういう状態に対しては個人では打つ手がなく、耐え忍ぶか諦めるか、燃え尽きるかくらいの選択しかない。こういう悩みについては具体的な解決策を示すことができないから、努力が足りないとか、世の中そんなに甘くないとか、そういうことしか言えない人が多いのかもしれない。

今のように自粛を余儀なくされるような状態の時は、社会主義の方が都合はよさそうだ。少なくとも、今の日本よりは富の分配を簡単に行えそうだから。富の分配、つまり、現金の支給となると、そこには不満が生じる。現金支給について、様々なニュースのコメントとか見た中では、企業には支援があるのにフリーランスには支援がないという不満、仕事を続けている人には何もないのに休みを余儀なくされる側のみに支給なんて働き損だという不満が記憶にある。フリーランスについては、収入が減っている人についてはとりあえず該当しそうだ。手続きの煩雑さとか、そういうので実質受け取りできないような可能性は今は考えない。逆に、仕事を続けているのにもらえないのは損だ、という不満は残るだろうが、仕事を続けている人は給料もらえるだろう。仕事していても新型コロナの影響で給料払うことができない、というような場合は、その会社は国の支援対象になって、結果的には仕事の対価を受け取ることができるのでは?新型コロナで人手が足りなくなって、その分仕事の皺寄せが来て大変になっている、というのであれば、それは国じゃなくて、会社にかけあうべき内容だと思う。国内にどれだけの企業があるか正確にはわからないけれども、これまでの累積患者数を考えても2000人に到達していないと思う(公表している数字が正しい場合)。企業の数は2000以上あると思うので、そう考えれば新型コロナで誰かが休みになってその皺寄せを受けるとしても、企業あたりに換算すれば一人分もないことになる。さらに、病院とかは複数の患者が出ているところもあることを考えると、企業が新型コロナによる欠勤で受ける人員不足の平均は企業あたり一人未満だ。逆に、病院とか複数の罹患があったようなところは勤務体制に影響があるだろうから、そういうところは国による補助の対象になってもいいと思う(上の記事ではそこには触れていなそうだ)。皺寄せについてもう一つ考えられるのは、在宅勤務の影響はあるかもしれない。在宅で仕事できずオフィスにも行けない、そういう人が増えて、仕事できる人に皺寄せがあるというような場合だが、これも結局はその会社内でどうにかする問題で、国に何か求めるのは違う気がする。あと残るのは、、、働いてないのに国からお金もらえるというのは、仕事している人に対する冒涜だから平等に全員に支給すべきだ、と思っている人もいるかもしれない。そういう人がいる場合、その人は苦しい思いで頑張って仕事しているのだろうけれども、国からの補償とその問題は分けて考えるべきだ、としか言えない。いずれにしても、対象外になって不満を感じる人は様々いるとしても、国としては、本当に明日の生活がどうにかなってしまうという不安のある人に対する補償を最優先すべき、というのは個人的には正しいと思う。

政治経済って、何のためにあるのか。こういうときに考えさせられる。普段は税金を取られてばかりで、この税金を納めなくていいならあれができるのに、とか思ったりするものだが、こういうときに困った人にお金を回すことができるのはメリットだと思う。メリットである以上、この仕組みは維持した方がいいと思う一方で、最初の方で書いた、やりたくない仕事、向いてないと思うことでもやらないといけない、と感じる人には、この仕組みのために税金以外の負担がある。前半で書いたような金銭面というよりも精神的苦痛の側面だ。「みんな頑張らないといけないという空気」の中で頑張っていくための何かが足りない、あるいは、頑張るのを邪魔する余計な何かを持っている可能性がある。そんな状態をなくすために学校教育はプログラムされている。この教育課程を修了すると、企業で、国で、何らかの価値を提供することを求められる。そのとき、自分の提供できる価値が需要のあるものであれば、それはそれほど大きなストレスにはならないと思う。しかし、自分の提供したい価値に対する需要がなければ、生きていくのが非常に困難なのが今の社会。つまり、適材適所の人がいる一方で、残りは自己矯正が求められている。「誰か」のための経済のために、別の「誰か」が犠牲になっている、その犠牲者は自分だと感じる人は、本音では仕事せずに済むなら仕事したくないと思っていると思う。なので、働いている自分も現金支給の対象になるべきと考えてしまいやすいのだろうか。これ、大抵はそう思う人は世の中甘く見るなとか、未熟だとみなされてしまう。実際は、弱さや未熟さだと言っても何も解決しない(黙れと言っているのに等しい)。しかし、そういう表現をする人が多いということは、どこかでその考えを採用して解決した人が多いということではないか。うまい表現が難しいが、弱さや未熟さを許されないと考えて切り捨てるのでなく、それらを持ったまま乗り越えるのが本当の解決なのではないか。それができたときに、そういう苦しみを持っている人に対して思いやりとか優しさで接することができるのだと思う。逆に、弱さや未熟さを許されないものと切り捨てるのは簡単なことなのかもしれない。

他人から評価されないと生きていけない社会

最近、新型コロナウイルスで、在宅勤務や時差通勤をする人が増えている。一方で、体調が悪くても無理して出社を強要されて、という人もいるようだ。こういうときに体調悪くても出ることを要求するなんて、という声があるが、逆の声もある。根性で乗り切れとか、体調悪いくらいで甘えるなとか。もちろん、人が何か限界に挑戦して、それを達成する姿をみて感動する、ということはあるが、だからと言ってその理屈をこの状況で体調の悪い人にあてはめても、、、個人的にそれは違うと思う。

東日本大震災が大きな分岐点になったと個人的には思っているが(もちろん、それ以前も流れはあったが少数派だった)、一人一人が自分の人生を大切にしたい、という声をあげるようになった。なんとかハラスメントなんて、昭和の時代は「教育」とか「しつけ」とか「洗礼」とか「儀式」とか、何か一種の人生のイベントのような形で、立場の強い人間が立場の弱い人に対して行っていて、反発しようものなら「どうなるかわかってんだろうな」と脅迫めいたことを言われるなんてのはザラだった。それでも、当時の人はそれに耐えてきた。それが世の中だ、それが社会だ、というのが当時の社会通念で、被害者側は泣き寝入りが当然だった。獅子は谷底に我が子を突き落とし、這い上がってきた子だけを育てるなんて言葉があるが、それを揭げてはこれが正義だ、這い上がることができないやつが悪い、と言ってはそういうことを繰り返してきた。実際、そこで這い上がるために努力するから強くなれる、という考えもできるのかもしれないが、一方で社会に対して泣き寝入りを決めこむ人、諦めて別の生き甲斐を見つけて生きる人、そういうこともできずに苦しむ人もいた。しかし、、、これもインターネットやSNSの普及によってだろうか、過去は声にならなかったが、今はそうした声が誰かの目に止まるようになってきた。そして、その数は非常に多い。インターネット普及前、それこそ昭和や平成初期は、横暴にしても被害者は声をあげたくてもその声を誰かに届ける手段を知らなかった。実際はなんとかコールとか、そういうのを助けるNPO組織とかあったのかもしれないが、それらを知らない、知っていても他の要因でそこに声をあげることができない、そんな状態だったのではないかと予想する。それがインターネットの普及、さらにSNSが普及したことで、これまでと比較にならないほどの労力で発信できるようになった。そして、教育やら何やらの大義をかかげて誰かをいびり続ける人が自らを正当化する主張だけでなく、その大義によって苦しむことになった人の主張も誰かの目にとまることになってきた。今にして思えば、インターネット普及前は、不特定多数の人に何かの主張を訴える方法はテレビ、新聞や本・雑誌への投稿など、限られた人しかできなかった時代だった。つまり、少数の人に情報の発信源を掌握されていて、発信したいと思っても発信できなかった時代だったということだ。それがインターネットやSNSの普及で大きく変わり、これまでは被害者側が泣き寝入り状態だったような人も発信はできるようになった。当然、泣き寝入りだった人は多いので、以前とは比較にならない様々な意見がインターネット上には出ることになる。誰か一人の主張だとワガママと言われてしまっても、同意する人が多くなればワガママで片付けることは難しくなってくる。この流れが少しずつ進んできたところで、リーマンショックがあり、東日本大震災があり、結果として、「チームワーク」という大義だけで社員を隷属させているだけで、、、会社・企業には、厳しい教育(?)をする見返りに人生を保証する力がもうないことが誰の目にも明らかになった。副業禁止としていた企業が副業を認めたり、過去と今の転職に対する意識の違いがその証拠だ。

過去と比較して、相当自由になっているが、それでも人はまだ縛られている。企業や会社からの束縛はかつてより弱くなっているが、それでも目に見えない何か、空気とか文化とかそういう表現しかできない何かが、一人一人を束縛している。これが何か、その答えのヒントになったのが体調悪いときの状態。自分が休めば誰かに迷惑がかかるという思いに始まり、休めば収入が減って生活が苦しくなるという状態、その状態をどうにかしようと政府が特別休暇を援助するようなことを言えば、誰かの休みで皺寄せを受けることになった人も、その皺寄せに対しては誰も認めてくれないと不満を感じる。立場はみんなバラバラに見えても、根底は同じじゃないかと感じる。それが、他人からの評価で生きている、という点。休む人は、休んだことで迷惑をかけてしまう、というのは、仲間に迷惑をかけることで仲間からの評価が悪くなってしまう、ということにつながっている。会社が特別休暇というものを認めれば、そこを心配せずに体調悪い人は休みを取ることができるようになるだろう、ということで政府は特別休暇に対しての援助を訴えたのだと思うが、そうすると、その穴埋めをした人にもそういうのがないのはやるせない気持ちになる、という主張も出てきた。もちろん、ここでは金銭的な報酬以上に単純に人としての感謝みたいなのを求めることも含まれるのかもしれないが、頑張ったことを認めてほしいという気持ちがあるのは間違いないだろう。

この他人から評価されないといきていけない社会、これは、評価されて始めて収入になるという、社会では、少なくとも日本の社会では、ごく当たり前と思われている仕組みがあるためだ。誰からも評価されないということは仕事をもらえないということに直結し、仕事をもらえないことは収入がなくなることにつながり、収入がなくなると生活の基盤を失うからだ。詳細はわからないが、生活保障という仕組みもあるので、そうなっても生きていくことはできるのかもしれないが、そうなると申し訳なさのようなものを感じるかもしれない。身近に生活保護を受けている人を根性なしのように言う人がいたとしたら、苦しくても頑張って仕事している人もいるのに自分はそれができずに保護を受けることになってしまった、自分もそう思われるかも、と自分を責めるかもしれない。結局、生きることはできても自分を責める。まあ、中にはそうじゃない人もいるかもしれないが。

他人から評価されて始めて仕事をもらえて、それで生活できる仕組みは、みんな努力するのが当然だと考えれば、別に悪いものじゃない。しかし、一方でうまい仕組みを作って楽して生きる人、楽して生きるというか、実質搾取するだけの人がいる。単純なのは詐欺や泥棒か。複雑なのはもっと悪質。例をあげるのは難しいが、テロの上層部と実行部隊のような感じだろうか。そういう人は社会の構造を搾取できる立場と、搾取される立場の人に分けたままにしておきたいと思っている。努力しても報われないことがあっても、それに対して、短期的には報われなくても長い目で見ればそんなことはない、と言ってごまかす。本当にそういう場合もある。でも、搾取する側とされる側に分かれていて、ごまかしの陰で、誰かの努力を奪う人がいる点を見逃しているのかもしれない。奪うのでなく、代わりにやらせているようなこともある。そういう人は、評価されないといい生活はできない、という構造を維持しつつ、自分は搾取を続ける。でも、一度その世界に入ると、その世界では、みんながこういうものと考えていて疑問を持たず、その世界での道理としても成立させているから、そこを変えるという発想すらでてこない。むしろ、変えると主張すれば、お前は莫迦か、と言われる。

この世界というのは、たぶん日本全体、考え方によっては地球全体かもしれない。日本では、無意識のうちに他人から評価されないといきていけないと思い込まされているとしたら、しかも、その犯人がいるわけじゃなくて、なんとなくみんなでそう思っているからそうなってしまっているのだとしたら、他人から評価されなくても生きていけるんだ、というように意識変換することは、自分の人生だけじゃなく、社会もよくすることにつながっていくと信じたい。

日本では、子供をしつけるときに「迷惑をかけてはいけない」と言って子供を叱る。しかし、世界には、迷惑をかけられるのは当たり前、迷惑をかけられたくらいで腹を立てるな、と叱る国もある。どちらが正しいのか?この「迷惑をかけてはいけない」という言葉が「他人から評価されないと生きていけない」という社会を創り、自らを苦しめることになっているのではないかとも思う。

限界突破できないと幸せになれない?

生きにくい世の中だと思う。資本主義の競争ゆえなのだろうか。人間のための社会でなく社会のための人間、というか、多くの組織がその組織の一部の人間の目標のために多くの人間の力を必要とし、多くの人間をその目標達成のための駒にする。もちろん、この状態が健全な範囲で行われているような場合もある。一方で、それは明らかに搾取だよな、というレベルの事もある。先日、セブンイレブンの残業代未払いのニュースを見て思ったが、以前はこの健全じゃない状態でも我慢するしかなかった空気が変わってきている。

勝ち組企業は、そうなるための仕組みを既に持っている。そして、その仕組みを維持するため、仕組み通りに運用するために人を使っている。仕組みが想定通りに機能しないと、この激しい生き残りに負ける可能性があり、生き残りに負けると、組織の規模によっては何千・何万という規模で影響が出る。そうなると大変だから、暗黙のうちに一人一人の都合が尊重されなくても仕方ないんだという空気が出来上がっていく。でも、尊重されなくても何らかの報われた感があれば、それにも耐えることができていた時代があった。将来への希望や、実際に変わりゆく社会というような具体的な形のないものも含めて。でも、平成の世になってからはインフラも充実してきていて、また、生まれたときからその状態が当たり前の世代も増えて、戦後の焼け野原に何もないような光景を現実として知らない人が増えてきた。そういう人は、駒にされることに絶望や苛立ちはあっても、駒になることで希望になるような要素は皆無と言える。でも、指導する側になっている人はその辺の感じ方の違いがわからずに今の苦労は大きなことを成し遂げる因になる、踏んばれ!!というようなことを言う。そういうことは絶対にない、とは言わないが、そうなる例の方が限りなく少なく見えるのが実情ではないだろうか。ただただ出来上がった仕組みを維持しているだけの現実なのに、それをごまかすような話をしても信じない人も多いだろう。でも、生きていくためにはそれでもそれをやらないといけない。結果的に、希望はないが生きるためだけに仕事する、みたいになってしまうのではないか。そんな状態が当たり前のように何年も続いてきたが、先日のセブンイレブンの例はそういう流れの変化を感じさせる。

希望がなくなってしまった要因の一つは、正当な対価を受け取ることができていなかったこともあると思う。実際には労働しているのに、シフトのルールとかで 1 分でも過ぎれば 30 分とかタダ働きするのが当たり前とされていたような空気。しかし、この運用は実は「労働基準法24条に違反(賃金の全額払いへの違反)」になるらしい。自分がバイトをしていたところでもこういうのが当たり前とされていて、違うんじゃないのとか言おうものなら世の中ナメンナヨみたいな話をされていた。しかし、法律ではナメンナヨと言っていた人達の方が間違いだった。インターネット普及前は、こういう情報を確認したいと思っても確認できなかったからなあ。どうせ誰も確認しないだろう、とタカをくくったどこかの誰かが、もっともらしいことを言って賃金は15分とか30分単位の支払い、というのを決めたのが広まっただけかもしれない(個人の勝手な推測です)。

こういう改善されてよくなっていきそうに見えるところもあれば、そうでないところもある。多くの人が駒にされるような社会でも、優秀な駒になろう、あるいは、駒を使う側になろうと努力してそうなった人たち。そういう人の中には、一部の才覚ある人というか天職のような人もいるかもしれないが、そうではないが努力でそういうポジションを勝ち取った、という人もいると思う。それ自体は問題ない。でも、そのポジションを勝ち取った人は、ある意味で特殊な力を持っていると思う。それは、人一倍努力できること。人一倍忍耐力が強い、誘惑に負けないということ。そういう人の努力の結果を否定するわけではないが、そういう努力をできない人もいる。そして、そういう努力できない人は、苦しくても希望がなくても生きるためにはやりたくない仕事でもやれ、というような空気を感じる。努力した人間が報われるのは問題ないが、努力できない人、したくない人は権利を主張することは許さない、となるとそれは行き過ぎだと思う。努力できない人、したくない人は贅沢できない、であれば文句は言えないだろうと思う。権利を認めないようなレベルのことを言う人がどれくらいいるかは正直わからない。

人間は本来は、苦しい人を助けたいとか、そういう感情を持っていると思う。しかし、社会で自分が生き残るために努力をすることで、努力できない人間の苦しみを感じとれなくなるというか、助け合いの気持ちを忘れて、「生き残りたければ努力しろ」という考えに染まってしまう人がいる。台風19号のときに、避難所にホームレスは入ってはいけない、というような話が出たが、その理由は税金を払ってないからというのが主なもの。もちろん、払いたくて払う人間はほとんどいない。それでも払っているから、払わないで恩恵だけ受けることができる人がいるというのを許すことができない、そういう人は、そういう主張をしてしまうだろう。筋が通っているように見えるかもしれないが、それは人の命の重みを無視している。努力している人間、大変でも頑張って税金を払っている人は助けましょう、でも、努力しないで払うべきものも払わない人間はどうとでもなれ、わかりやすく極端な言い方をすればそういう主張だ。国や政府、税金って何のためにあるのだろうか。アリとキリギリス、アリが正義でアリのような一生を送るようにと教えられてきたが、これだけだとキリギリスは見殺しにしろ、というように無意識のうちに学習してしまっているのだろうか。

前半に書いた残業代の話は、努力していても報われないで理不尽なことでも当たり前とされてきていた時代が変わりつつあるのかも、という話。言ってみれば、より努力が報われるように、努力に対して正当な評価がされるように、というような流れの話。でも、それで終わってしまえば、後半のような努力できない人は犠牲になっても文句言うな、というようなところは変わらない。人間には体力の限界がある。精神力の限界もある。今は努力できていても、数年後はできないかもしれない。努力できなくなったときに自分が逆の立場になると考えても、それが正しいと言えるのだろうか。そもそも、すでに出来上がった仕組みを維持することでその恩恵を受けて豊かに生活できる、というこの仕組みが健全なものなのか。誰かのために、そういうところから出発したはずの発想が、いつの間にか仕組みを維持することが目的になって、誰かのためでなく、誰かの手によって、というか、、、目的と手段が逆転していないだろうか。人が社会を形成するのは、誰かから労働力を搾取して自らが豊かになるという目的ではなかったはず。力を合わせて生きる、というのが原点ではないのだろうか。その時代、力のないものはどうだったのだろう。役に立たないとゴミ同然に扱っていたのだろうか。そんなことはないと思う。むしろ、力のない人のために力を合わせていたのではないかと。

もちろん、お金を受け取る以上は果たすべき責務がある。しかし、自分を犠牲にして限界突破しないとより豊かになれない、というサイクルを続けるのに限界がきている。まあ、この限界がきているために、少し疲れて被害妄想になっているところもあるかもしれない。あまり意識しないで書いたが「努力」という言葉を滅茶苦茶使っている。少し休む必要があるのかもなあ。

Debian の Emacs で IME を UIM に変更

Sony Vaio S14 に Debian をインストールして使用し始めて数ヶ月が経過。脱MACの道を徐々に歩み始めているが、まだまだ中途半端な感じがある。

その中途半端な感じの一つが、EmacsでのIME。DDSKKと出会い、SKKじゃないと生きていけない体になり、Mac では AquaSKK を使用。ここで、AquaSKK と DDSKK の辞書の同期問題というものが発生。同じものを使用するのはなんか抵抗があり、マージするスクリプトも用意したりしたがほとんど使用せず。さらに、ここにLinuxのDDSKKとUIM-SKKの辞書が加わる。あれ、これ登録されていなかったっけ?というのも頻発。そこで、OSでSKKを使用できるのであれば、それをそのままEmacsでも使用すればいい、となった。

そこで調べてみると、Debian(他のDistributionでも同じと思うが)では、uim-el というのを使用することで Emacs から OS の IME の切り替えができるようになるという。これを使用しない手はない!!ということで早速設定。

まず、インストールだが apt で行う。

  1. sudo apt update
  2. sudo apt install uim-el

これでインストールは完了。次に Emacs の設定。まず、DDSKK関連の設定は全てコメントアウト。追加で以下の設定を追加。

(require 'uim-leim)
(setq default-input-method "japanese-skk-uim")
(global-set-key "\C-\\" 'uim-mode)
(setq uim-lang-code-alist
     (cons '("Japanese" "Japanese" utf-8 "UTF-8")
         (delete (assoc "Japanese" uim-lang-code-alist)
                       uim-lang-code-alist)))

設定は、UimEl · uim/uim-doc-ja Wiki · GitHub を参考にしたがすぐに問題が、、、Emacs の *scratch* がまともに機能しなくなってしまった。Ctrl-j の割り当てが UIM に吸収されてしまうためだ。なので、UIM から Ctrl-j を奪った、、、というか奪わざるを得なかった。これでいいのだろうか。Shift-SPCで入力モードを切り替えるようにして、Emacsキーバインドをそのままにしてみたが。

どこかを立てればどこかが立たなくなるな。

HTML Escape Converter by Shell

HTMLのエスケープ文字、昔は   とか > とかを使用していたが、HTML Codes - Table of ascii characters and symbols
によればこれは HTML Name と呼ばれるもので、これと別にHTML Number というのがあるようだ。HTML Name は一部の文字にしか割り当てられていないが、HTML Number というのはほぼ全てのASCII文字に割り当てられていそう。どうせならこっちを使う方がよさそうなので、HTML Number でエスケープすることにした。

問題は、過去に作成したHTMLではHTML Nameを使用していること。EmacsLispとかで文字変換させたりしているので、そのような場合に面倒になるかもしれない。というわけで、これらを置き換えることを考える。sed を使えばできそうなのでやってみる。Bash で二次元配列を使いたいので、ついでにそのサンプルにもなる。とりあえずは二次元配列。

PAIRS=('   ' '< <' '> >' '& &' '" "')
for i in "${PAIRS[@]}"
do
    PAIR=(${i[@]});
    echo ${PAIR[0]};
    echo ${PAIR[1]};
done

実行結果は以下。

$ PAIRS=('   ' '< <' '> >' '& &' '" "')
$ for i in "${PAIRS[@]}"
> do
> PAIR=(${i[@]});
> echo ${PAIR[0]};
> echo ${PAIR[1]};
> done
 
 
<
<
>
>
&
&
"
"

とりあえず、ここから進めていく。エスケープして sed に渡さないといけないので、そこだけ気をつけないといけなそうだ。