Shammer's Philosophy

My private adversaria

変わる働き方

先日、某人気旅行エリアに旅行に行ってきた。そこで、日本からその地に移住した人との出会いがあった。何度かその旅行エリアには行ったことがあるが、その都度「ああ、将来はここで暮らすことができたらな」と漠然と思う。しかし、日本にいる両親のことや持ち家、子供の生活などを考えると「やっぱり旅行で来るからいいんだ。隣の芝生は良く見えるというやつで、ここで生活したらきっとここでの不満もあるだろう。」とその思いはしばらくすると消える。そんなことを何度か繰り返してからの今回の出会い。その人と少々の会話をしたのだが「最終的には今の生活を捨てることができるかですよ。私は日本の生活から逃げたい思いの方が強かった。」という主旨のことを言われた。結局、移住できたらいいなと思ってはいるが、いざそのチャンスが来て、これまで日本で積み上げてきたものなどを考えたときに、そのチャンスに飛びつくことができるかどうか。それは正直わからない自分がいる。
同時に、別の視点でも印象に残ったのは、その人が「逃げたい思いの方が強かった」と言ったことだ。もちろん、謙遜もあるかもしれない。しかし、日本では石の上にも三年というような、逃げない姿勢の中に美徳を感じる文化というか風潮がある。逃げれば楽になることでも、その美徳感故に現状に耐えようとする人が多い気がする。そういう人の中でも、その「耐えている」こと自体が生きている証というくらいまで強く、その思いを持っている人もいそうな印象すらある。銀行などはその傾向が強いのではないだろうか。終身雇用がほぼ崩壊している現状でも、転職歴の多い人はそうでない人と比較して住宅ローンの審査が通りにくい、というか、一定期間以上同一の職場にいないと審査対象にすらしないという銀行が存在するくらいだ。このことなんかは、その会社がどんな会社であれ、ある程度の忍耐力がない人は信用できないと考える風潮があることの裏付けではないかと思う。また、家を買ったとたんに単身赴任しなければならないような転勤辞令がくるという話もよく聞く。せっかく家を買ったんだから、その家で家族と過ごしたいと思うだろうに。。。このような話を聞くと、会社は社員の人生を何だと思っているんだと感じる。会社が上で社員は下。こういう状況でも多くの会社ではそれを断ることができない仕組み、あるいは空気があるのだろう。だから社畜という言葉ができたりするのではないだろうか。まあ、一言で言ってしまえば理不尽な現実を前にしても耐えて従う以外の道はない、そういう人が多い社会となる。普通の人は、理不尽なことからは逃げたい、遭遇したくない、と思うのが普通だが、それをすると先に書いた美徳感を傷つけるような罪悪感を感じたり、銀行の審査が不利になるなどの社会的デメリットが存在する。道理を考えれば、理不尽なことをする側が悪い。しかし、現実は理不尽に耐えることができない側が不利益を蒙ることも多い。
ここまでは、今回の旅行以前もぼんやり感じるというか考えることがあった。実際、親戚の中にも家を買った途端に転勤辞令を受けて、買った新居では妻と二人の小さな子供、夫は転勤中という人がいて、つい最近もそういう話をしたばかりだ。でも、ここまで。「そういうのよく聞くよね。ひどいよね。でも仕方ないよね。」でその話題は終了。ここで、今回の旅行でのその人との出会い。率直に思ったのは、「そもそもなぜ逃げることが良くないと思われているのか。耐えることが美徳と思われているのか。」ということだ。極端な例だが、どこかで登山に行って野生の熊に出会ったら、普通は逃げる。でも、そこで逃げたという行為を不徳とみなす人はいない。では、なぜ理不尽なことから逃げることは不徳とみなされるのだろうか。この価値基準はそもそも誰が決めたんだ?
具体的に証明するのは難しいが、自分が今この瞬間にこうじゃないかと思うことを書く。日本は、第二次世界大戦で多くのものを失った。それまで信じていた価値観が崩壊した。信じていた価値観の崩壊、これは一人一人の人生においてはものすごいインパクトのある出来事だ。虚無感、絶望、脱力感、憤り、やるせなさ、そういった負の様々な感情が同時に襲ってくる。これを多くの人が同時に体験した。内を見ればこの複雑に絡みあった負の感情、外を見れば場所によるが一面の焼け野原、このような状況の中で、そこから這い上がるために多くの人が必死にもがいたんだと思う。まずはとにかく食べないといけない。食べるためにはXXしなければならない。戦争終了直後にやること、やらないといけないことは多かったと予想はできるが、まともに給料をもらえる雇用がどれだけあったかはわからない。給料をもらえるもらえないにかかわらず、負の感情を感じている暇もないくらい、そのやることに取り組まないといけない状態だったのかもしれない。そして、何が正しいとかどうあるべきとか、そんなことを考えている時間もないくらいに何かをやった。やるしかなかった。やりながら考えるしかなかった。そして、内面はどうあれ、何かすることで外面世界の変化は目にすることができた。少しずつ目に見える世界が変わっていく。この変化を目にすることで生きている実感を感じていったのではないだろうか。この実感が内面の複雑な負の感情を少しずつ氷解させていったのではないだろうか。もちろん、全ての人がそう感じたわけではないかもしれない。しかし、出発点が出発点なだけに、目の前にあるやらないといけないことに取り組み、その取り組みが進む中で、既存の価値観が崩壊したダメージを回復していったのかもしれない。何が正しいとかそういうことを考えている時間はないが、やれば外面世界は変化する。この変化の達成感が生きる希望になったのではないだろうか。これは無意識のうちに社会で共有されていき、少々の理不尽なことがあっても、出発点の悲惨さを知る人にとっては少々の理不尽は理不尽でなく、何かを解決するために必要な犠牲という感じだったのだと思う。この考え方を土台に日本の発展は実現し、この土台の延長に築かれた現在の社会には、少々の理不尽は発展のために必要な犠牲という意識が無意識下で浸透していて、この無意識下で浸透した意識が無意識のうちに「忍耐」を要求しているように思う。この「忍耐」は社会の発展のために必要だったという意識が、忍耐イコール信用という論理になって、銀行での融資の際にもどれだけ一つの場所で頑張ることができるか、つまり、社歴の長さが融資の是非に影響するようになっているのではないかと思う。
第二次世界大戦は、当然だが日本だけでなく世界にも大きな影響を与えた。一番大きな変化は帝国主義の崩壊だと思う。帝国主義という表現はもしかしたら正確でないかもしれないが、自分が言いたいのは武力で植民地を拡大することで豊かになろうという価値観の崩壊のことだ。これに置き変わる形で、資本主義と社会主義(共産主義)が台頭し、それぞれの国はそれぞれの国で正しいと思う方を選択した。この共存は冷戦として、いつ第三次世界大戦になるかという危険な状態ではあったが、資本主義国と社会主義国では、見た目は資本主義の方が発展しているように見えた。最終的に20世紀の終盤には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は崩壊し、社会主義国家としては一番大きかったソ連ゴルバチョフペレストロイカで解体、実質的に資本主義と社会主義では資本主義の方がいい、と多くの人が信じて疑わなくなった。
これは日本も例外ではないと思う。先に書いた犠牲の精神を土台にして資本主義国家として発展し、80年代にはアメリカに継ぐ経済大国になっていた。しかし、バブルが崩壊。しばらくは同じ路線のまま復活をとげようと頑張ってきたが、目に見える効果はなく、経済史的には失われた20年とか酷評される状況だった。しかし、この発展しないという事実は、大戦直後の痛手を実体験していない世代を中心に、先に書いた「理不尽に耐える」価値観の放棄にまで発展していると思う。この発展の最中に東日本大震災が発生し、会社や社会のためでなく、自分を大切にというか、無理しない、高望みしない生き方を選択しようという人が増えてきていると思う。なるべく物を持たないで生活するスタイル、車は持たずにカーシェアするとか、都心でなく地方での生活を選択しようという風潮などが見られるようになった。また、労働のあり方にも変化の兆しがある。ジェネレーションギャップと呼んでいいものだと思う。極端な書き方をするが、自分のことを後回しにしてこれまで社会の発展に貢献してきた世代と、発展に貢献するというよりも発展した社会の中でいくらでも替えのある歯車の一つとしての働き方しか知らない世代が共存するのが今だと思う。最近は東京オリンピックに向けての設備投資のようなものがあり、歯車としての仕事でなく、歯車を組み合わせていくような大きい仕事がここ数年の中では多いのかもわからないが、戦後の焼け野原で何もないところに、頑張ったら頑張った分だけ目に見える変化を実感できたのと同じ規模の仕事は圧倒的に少ないはず。「仕事」と言う言葉自体は今も昔も変わらないが、同じ仕事という言葉から受ける印象などは全く異なるはず。人間というのは、やったらやった分だけの見返りを求める生き物だと思う。やったらやった分の程度は人それぞれ異なるとしても、やったことを認めてほしいという気持ちは人として共通のものだと思う。この気持ちは共通だが、今の時代は、お金の面でも、社会に貢献できているという実感でも、その見返りを得るのが難しい。つまり、仕事しても報われた感を感じにくくなっているということで、仕事以外で報われた感を感じようという動機になっている。そういう動機の人が長時間労働したくないと思うのは当然だし、それを怠惰とかいうように会社が言っても、何らかの形で見返りを与えることができないのであれば会社もそれを言える立場にない。
資本主義社会において、会社は社会を構成する最も小さな組織だ。ここで言う会社は法人格があるかとかいう意味でなく、一緒に仕事をするチームという意味だ。その会社において、働く人が仕事して報われないと感じることに、説得も含めて(決して洗脳ではない)何か有効な対策を打てないとすれば、資本主義社会も先に崩壊した社会主義と同様の結末を迎えるのではないかと思う。資本主義と社会主義、先に瓦解したのは社会主義だが、単に時間の差があったというだけで資本主義も社会主義同様に文明の在り方として人類にふさわしいものではないということだ。しかし、これを捨てるには社会主義以上の時間がかかるのではないかとも思う。一部それを否定する人がいるとしても、一部でありしかも日本においては復興の歴史そのものであるためだ。成功したときの体験や、その際にベースとなった法則を捨てるのは非常に難しい。実際には、資本主義をベースにして、そこにこれまでにない別の価値観を取り込むことで、資本主義が進化する形で決着するのではないかと思う。今の社会は、個人の楽しみというか、そういうものを見出す余裕がないところからスタートして発展した社会だ。これは別の観点では、個人の楽しみというか生き甲斐、志向を求める言動は社会発展を阻害するものとして、それらを押し殺すことを要求してきた社会(残業ばかりで子供の顔も満足に見れないとか)であり、言ってみれば社会と個人がWIN-WINでなかったのではないかと思う。この関係を徐々に改める方向で変わっていくといいと思う。